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長崎県の山

平戸のマッターホルン・志々伎山 [347.2m]

登山口(駐車場) → 展望台(約15分)

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鳥居前には、志々伎神社や志々伎山を指す案内が立てられ迷うことはない。
志々伎山への一歩は、石段を登り鳥居をくぐって始まる。
額束には「志志伎神社」と刻まれている。
すぐ桜の木をくぐっていく。
花時はさぞかし美しいだろうが、ひと月早い。
この道は志々伎神社への参道として、広く気持ちいい。
辺りはしっとりとしてコケむし、「ワビ」の感触に気持ちも濡れる。
1分も行くと、 段差の大きい石段 になる。
30数段登って左手へ、すぐ石段を右手へカーブし登って行くと、木製の鳥居前に着く。
左手には白い立て札が立てられ「四国八十八ヶ所霊場 志自伎山阿弥陀寺」と書かれ、 左手に分岐 し石畳が伸びている。
石畳は、登山口横の阿弥陀寺に通じ、帰路この石畳を通ってもいい。
石畳の両脇には数え切れないほどの石像が整然と並べられている。
鳥居をくぐり10mも登って行くと左手へカーブし、壊れかけた石段を登って行く。
右手は土壁が崩落したのか、赤土の中から根っ子がむき出しになっている。
左手へカーブすると傾斜はゆるみ、コケむした道はまっすぐ伸びる。
2〜30mも行くと右手へカーブし、コケはさらに厚く色も濃くなる。

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階段状に彫りこまれた路面は、緑のじゅうたんを敷き詰めたようにコケに覆いつくされ、わずかな踏み跡を辿るようにゆるやかに登っていく。
こんなコケ道は他にない。 しかし、コケで滑りやすくコケを踏むのに躊躇する。
コケ道を7〜80mも行くと、傾斜はゆるんでくる。
コケ道は土道に変わり、道幅は狭まり右手へカーブしていく。
道はすぐ登りだし、10m行くと左手へカーブしていく。
ゆるやかな傾斜を少し行くとまた石段になる。
20数段登り左手へ直角に折れると、また石段になる。
石段は40数段を数え、 踊り場 に出ると右手にさらに長い石段が伸びる。
長い石段は、つま先上がりで足に力が要る。
途中一息ついて、数えてみると117段を数えてしまう。
登りきると、車道が右手へ伸び山頂はこの車道を行く。
正面に立派な鳥居が迎えてくれる。
鳥居の手前には一対の狛犬が据えられている。
稲荷神社は狐、日吉神社は猿、日吉大社の申し子日吉丸、後の豊臣秀吉は「猿」と呼ばれていたのは周知のとおりではある。
同じ神社で異なるのは何故かは分からない。
左手には木柱が立てられ「祝皇太子御成婚記念樹」と書かれているが、記念樹どの木かわからない。
右手にも木柱が立てられ「県指定史跡式内志々伎神社跡」と書かれている。
鳥居額束には「志自岐神社」と刻まれている。
鳥居をくぐって行くと 正面に拝殿 、左手には石碑が立てられ、志々伎神社について説明されている。

式内社志々伎神社跡
式内社志々伎神社は、志々伎山を中心として上宮、中宮、地の宮、沖の宮の4社と別当寺(円満寺)の5つの社殿があり祭神は仲哀天皇の皇弟十城別王(とおきわけのみこと)である。
志々伎神社は古代朝鮮との交易、中世における松浦氏との関係において崇拝された神社で、肥前国における式内三社の一つであり、壱岐、対馬の式内社に比べ規模が大きく式内社としての形を現在までよく伝えている点などで歴史的価値が高い。
<平戸市教育委員会>

内式 志々伎神社
鎮座地  平戸市野子町 御祭神  十城別王  (とおきわけのみこと) 相殿   七郎氏広  鴨一隼戸
当社は平戸島最南端宮の浦鎮座の沖都宮・辺都宮・志々伎山(標高三四七米)中腹に当中都宮、山頂に上都宮四社を併せて志々伎神社と称します。
御祭神十城別王は大十二代景行天皇の御孫にて日本武尊の第六王子で勇猛果敢な父の血を受け継ぎ神巧皇后の三韓出兵に軍大将として参加凱旋された将軍です。
当社の御創建年代は不詳ですが「延基式神名帳」(927年に撰進)頭注に「下松浦明神ト号ス」と記されている「式内社」で志々伎神社の上に式内とするのはこの為です。県内(壱岐・対馬を除く)唯一の式内社です。陽成天皇の元慶元年(877年)に勅使参向の儀が執り行われたということより考えても当社に対する皇室の尊崇がいかに厚かったかが伺えます。しかし遠国なる故にその後は肥前国司が代参されました。明治時代神社々格「県社」に列せられています。
この様に県内はもとより全国でも有数の歴史を誇る古社で有ります。
<平成十四年  師走>


元に戻り、車道を左折していく。
すぐ左手に案内板が立てられ志々伎山頂を教えてくれる。
車道を2〜30mも行くと左手カーブし、さらに4〜50mも行くと正面に石段を見る。

LinkIcon登山口案内【 山の記録1 】山の記録2LinkIcon

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