九州の歴史をきざむ・四王寺山 [ 四王寺山:410m ]
四王寺山コースは、九州の歴史の舞台となった大宰府市の北側に、今から約1350年前、唐と新羅の侵攻の防波堤として築かれた土塁を行く。
コースは、土塁ゆえ大きなアップダウンはなく、道沿いに現れる札所は、実に観音菩薩巡礼に他ならない。
さらに、戦国末期の岩屋城の激戦跡や、歴史の節目に必ず登場する少弐父子の墓に想いを寄せれば、他山では得られない味わい深い山として、山記録に欠かせない1ページに加えられる。
四王寺山は、太宰府市をはさんで南側に対峙する宝満山とはまったく対照的で、なだらかな尾根に築かれた土塁を行く。
一帯は、「県民の森」区域にあり、太宰府市・大野城市・/宇美町にひろがる約350ヘクタールに及ぶ自然公園内に、山より高い歴史が深く刻み込まれている。
四王寺山は奈良時代末期、大野城内に仏の力で国を守ろうとして四天王をまつったことで、山名はこの寺に由来するが、地図には大城山と記載されている。
西暦661年、朝鮮半島で高句麗・新羅・百済の間で抗争が繰り返され、新羅は唐と手を結び南下、大和朝廷は百済救援のため出兵したが、錦江河口の白村江(はくすきのえ)を400艘の舟で航行中、両岸から火矢を打ち込まれて大敗、朝廷は唐と新羅の侵攻を恐れ、大宰府防衛のため北部九州から山口に至り防衛網を築くことになる。
その一つが大野城で山全体が大野城と呼ばれている。
大野城は百済からの亡命者の指導により、朝鮮式山城として長い城壁が築かれ、尾根部分には土を固め積み上げた土塁が、谷川部分には石を積み上げた石塁が築かれ、外周:6・5km、総延長:8kmに及ぶという。
城壁内には、70棟に及ぶ高床式の倉庫群が造られ、武器や食料が備蓄され長期間籠城し防戦できるしくみになっていたという。
平成17年8月