九州の歴史をきざむ・四王寺山 [ 四王寺山:410m ]
岩屋山〜登山口(60分)
分岐から1〜2分も登れば岩屋城跡に着く。
正面に「鳴呼壮烈岩屋城跡」と刻まれた紹運辞世碑が目に付く。
その奥に東屋が立てられ、テーブルが用意されここで一息つくといい。
山頂は、
左手高台に山頂標
が立てられ、「281m」と書かれている。
ここ岩屋山は、岩屋城城主「高橋紹運」の壮絶な死闘が繰り広げられた歴史的場所で、戦国の世に想いは走る。
1586年、九州制覇の野望に燃える島津は、豊臣秀吉軍の九州上陸前に北部九州制圧に乗り出す。
まず、島津軍は、日向・豊後・豊前へ北進する東回りの3万の大軍と、肥前・筑後・筑前へ侵攻する西回りの2万の大軍に分かれ、九州全域を制圧した後豊前で合流し、秀吉軍を水際で撃退する戦略である。
西回りの2万の大軍は、肥前・筑後を経由し大友方の諸城を次々に落とし5万の大軍に膨れ上がる。
7月12日大宰府入りした島津軍は二日市般若寺に本陣を置き、1日休養し翌7月14日岩屋城攻城戦は開始される。
岩屋城跡(本丸跡) 岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満山の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑(あき)種(たね)によって築かれた 同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ川って吉弘鎮(しげ)理(まさ)(後の名将高橋紹運)が城主となった。紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち激戦10日余日秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。
大宰府市
一方、大友方は1578年「耳川の戦い」で島津軍に敗れ衰退の一途にあり、1580年肥前で台頭する龍造寺隆信と和議を強いられ、筑前15郡のうち南西部の9郡を龍造寺領とし、残る城は立花城・宝満城の3城に激減、岩屋城に援軍を出す余力は既になくなっている。
戦力を失った大友宗麟は、豊臣秀吉に大阪城で渇見を許され、島津討伐を上訴している。
島津軍5万の大軍に対し、岩屋城の守備兵わずか736名、勝敗は明らかであるが、岩屋城が落ちれば大友方最後の砦、立花城は一機に猛攻を受ける。
秀吉援軍が来るまでの時間稼ぎとして、紹運はここに玉砕を決意するのである。
立花城主立花統虎は紹運の実の子で、後の柳川城主立花宗茂である。
岩屋城を1日も早く陥落させ、立花城を攻め落とし、豊後で秀吉軍を撃破したい島津軍は、山麓の人家を焼き払い、軍鼓を打ち鳴らして怒涛のように山中になだれ込み、新手を繰り返しながら攻撃する。
しかし、城方は全くひるまず鉄砲で狙い撃ちし、岩や大木を落として応戦し、両軍の死力の限りを尽くした壮絶な攻防戦が続く。
なかなか落ちない岩屋城に対し、島津は何度となく開城を申し入れるが、主家に対し忠誠を尽くす紹運は、頑強に拒否し徹底抗戦を貫くのである。
しかし、真夏日、連日の死闘に城兵の疲労は極限に達し、7月26日には外郭が落ち翌27日には二の丸・三の丸が破られ、大軍の前についに紹運は自刃して果てる。
時に紹運は39歳であったという。
残る50名足らずの城兵も、紹運の死を見届けると後を追うように自刃し、736名全員がここに玉砕することとなる。
島津軍の打撃も大きく、実に4500名の死傷者を出したという。
島津軍は、岩屋城を落とすのに2週間もの時を費やしてしまい、立花城を落とすことなく薩摩に撤退、わずか736名の守備兵が守る岩屋城の戦いで島津の野望は崩れ去るのである。
さらに実の子も守り通したのである。
400年を経た今日、岩屋城跡に当時の面影はなく、壮絶な歴史を優しく包み込むように、桜の名所になっている。
最後に、紹運はここ本丸跡に立ち、押し寄せる5万の大軍を見てどのような胸中であったか察しきれない。
同じ場所で見る展望は素晴らしく、東に宝満山、目を引くと眼下に九州の総督府があった大宰府市街地が広がる。
そこに一際大きい九州国立博物館の青い屋根が目を引き、西には天拝山、背後に九千部山や脊振山が遠望できる。
さて、時計を見ながら岩屋城を後にする。
往路を下り、
左手へ石段
を60段ほど下ると車道に出る。
左手には、岩屋城について説明板が立てられている。
高橋紹運公の墓は、車道を右手斜めに横切り、左手へ歩道を下っていく。
滑りやすい砂質の道
を下ると、左手に木段が登りロープが張られ車道へ通じる。
車道から2分足らず下ると
右手に道標
が立てられ、右手へ分岐している。
道標には、「市民の森 大宰府跡」と案内されている。
分岐から10数メートル先には、高橋紹運の墓が目に入る。
道沿いには、桜の木が目につく。
高橋紹運の墓
は、10メートル四方の石垣に囲まれ、中には数本の桜も植えられている。
左手隅には、ほうきが用意されこれを手にしてもいい。
奥の方には、岩屋城戦死者の碑も建てられている。
ここは、岩屋城の二の丸跡だという。
さて帰路は、左手に墓を見て直進し急坂の木段を蛇行し下ってもいいが、10数メートル戻り道標から左折した方が下りやすい。
道標から10メートルも下り、左手へ鋭角にカーブし下っていく。
少し行くと、
道はY字状に分岐
し右手を取る。
道はさらに分岐し、右手の急坂を下る。
すぐ、左手に墓を直進して下ってきた道と出会う。
さらに数段、木段を下ると
道は平らになる
。
ほぼ平坦な道を左手へカーブし下って行くと木段になる。
木段は、珍しく角材が使用
されている。
周囲はヒノキ林に囲まれ薄暗い。
さらに24段ほど下ると木段はなくなり、右手へカーブし下っていく。
道沿いには小竹が多くなる。
少し下ると傾斜を増してくる。しかし急坂ではない。
木段は連続して付けられたものではなく、傾斜の大きい所に付けられ10段ほど下り落ち葉の道を少し下るとまた10段ほど数える。
すぐ、右手へ鋭角にカーブしさらに6段ほど下り左手へ鋭角にカーブすると、道は歩きやすくなる。
快適な道も、疲れた足にもどかしさも感じてくる。
長い歩行を早く終えたいのか、ゆるやかな下りについ足早になってくる。
落ち葉の道を右手に巻きながら、重い足を持ち上げるように下っていく。
これから先、登りがないことが有難い。
左手に目をやると、大径の自然林が多くなる。
右手はなぜか、小径木が多い。
さらに、5〜6段下り左手へカーブし
右手大木
に触れながら、ゆるやかに下っていく。
少し行くと、道は右手へカーブし10数段下ると、左手から日が差し込んでくる。
明かりを見て、深呼吸しながら蛇行して下るとT字形の分岐に出会い、右手に道標が立てられている。
道標には、「岩屋城跡 高橋紹運の墓:0・8km」と案内されている。
ここを右手にとれば、100メートル足らずで車道を横切り、橋を渡って「眺望の森」へ行く。
分岐を左折すると、すぐ車道に出会う。
右手には、ここを登る登山者向けに道標が立てられ「岩屋城跡」と案内されている。
車道を直進して横切ると、右手にも道標が立てられ「岩屋城跡 高橋紹運の墓:0・8km」と書かれている。
すぐ右手に「市民の森」簡易案内図を見て直進していく。
道は狭いが、快適歩行
が楽しめる。
しかし、快適歩行より登山口が気になってくる。
車道から2分も行くと、
4辻に出会い
左手「どんぐりの森:0・1km」右手階段を下れば「春の森:0・1km」と案内されている。
さらに直進して、落ち葉の快適な道をゆるやかに下っていく。
3分足らず下ると、また4辻に出会い左手は「秋の森:0・2km」右手は「春の森:0・1km」と案内されている。
少し行くと、道は
赤茶けたミゾ状
になりゆるやかな傾斜を下っていく。
道標から2分も行くと、右手に車道が見えてくる。
すぐ、
右手へ分岐
その車道へ通じる。
分岐を左手へゆるやかに下ると、すぐミゾ道になる。
ミゾ道は、下るのに支障はない。
分岐を2分足らず下り、2〜3メートルの段差を下りると、すぐ明るくなり
右手に人家
が見えてくる。
左手には池が現れ、池の縁を伸びる草道を左手へカーブして行く。
少し行くと、右手に
テニスコート
が左手には
岩屋山
が望まれる。
左手に池を見て、草道を100メートルも行くと左手へカーブし未舗装道と出会う。
登山口は、右折するが左手へ道草したい。
左手へ10数メートルも行くと、正面に道標が立てられ、右手へ「武藤資瀬・資能の墓:30m」と案内されている。
武藤資頼・資能の墓
五輪塔(向かって左)が武藤資頼(すけより)、宝篋印塔(ほうきょういんとう)がその子の資能(すけよし)の墓と伝えられる。武藤氏は鎌倉幕府の武将で、大宰少弐(だざいのしょうに)を世襲したことから、少弐氏を名乗る。
五輪塔(県指定文化財)は、地・水・火の下三輪しか残っていないが。各輪四方に円相の中に仏が浮彫にされている。また本来球形の水輪は四角石の角を落としただけで球形を表すなど、大変珍しいものでる。
大宰府市
「資瀬」は「資頼」の間違いではないか、と一瞬思うが先を急いでしまう。
道標に従い右折し、ゆるやかに登り少しばかり下ると左手に
武藤氏父子の墓
がある。
武藤資能の墓
武藤資能は資頼の子で仏の道に入って覚恵と称しました。
亀山天皇の文永十一年蒙古軍が博多湾に攻めてきました。その時資能は総司令官として元軍を迎え討ち、子景資と共に率先して手兵を以って百道原で奮戦しました。
さらに弘安の役が起こるに及んで河野通有、大友貞親等と協力して奮闘し弘安四年七月十三日令八十四才で戦死し国難に殉じた勇将であります。
武藤資頼の墓
武藤資頼は建久七年源頼朝の命により鎮西奉行として初代守護職となり武家政治の始めとなりました。
この地は観世音寺の盛んな時、四十九の子印の一つである安養寺のあった地です。資頼の法号を安養寺殿と言うので資頼がその施し主であったと思われます。
この塔は五輪の塔ですが上の空輪、風輪の二つが欠けています。石蓋及び両地輪共、四面に仏像が刻してあるが半場磨滅して鮮明でないものも古雅にして優美であります。
わが国唯一の方形五輪塔として福岡県重要文化財に昭和37年4月指定されました。
武藤氏は1195年源頼朝より鎮西奉行に任命され太宰府入りし、朝廷から太宰少弐の官職を得、以後少弐姓を名乗り、戦国に至る11代・300余年、絶えず歴史の表舞台に登場する。
一つ歴史を学んで引き返す。
右手、池の縁を通ってきた道と出会う場所に道標が立てられ「岩屋城跡 高橋紹運の墓:1・5km」と案内されている。
道標を見て10メートルも進み、車止めを抜け車道に出る。
車道を左手にとり、
桜並木
を2分足らず行くと右手にテニスコートを見る。
テニスコートの左手を行くと三差路に出会い、左手に道標を見て右折していく。
右手には、「史跡ロマンのまち大宰府」と題した案内板が立てられている。
少し行くと、右手に岩屋山が望まれる。
右手人家にお住まいの武藤さんは、武藤資頼の一族かどうかわからないが、もう82歳を迎えられ、これまで宝満山を5000回も登頂されたという話は有名であり、各新聞紙上で紹介されたのを思い出す。
すぐ三差路になり左手へ直進していく。
左手に政庁跡広場を見て、車道を4〜5分も行くと正面に八幡宮が見えてくる。
ここを左折し往路を帰れば、歴史深い山旅は終了する。